山形県天童市にある妙法寺には、天童織田藩の家臣・吉田大八公が切腹した『観月庵』があります。
吉田大八は、貧しかった天童藩の武士に将棋駒製作の内職を奨励した人で、今では天童市の名産となっている将棋駒製作の礎を築いた人です。
かつては、武士は内職などはもっての他だったのですが、駒を彫る時の刃物を使う事は、武士として刀を扱う為の鍛練だと言うことで、駒づくりを推奨したとのことです。
吉田大八(だいはち)(守隆)は、1832年(天保3年)、江戸天童藩邸に生まれる。父は天童藩江戸家老荘左衛門守寛、母は米沢藩士山下歓左衛門の娘文。大八は15歳で父の後を継ぎ、天童藩大目付、武具奉行、養正館督学などの要職を経て1867年(慶応3年)中老に昇格する。要職を歴任する中で、江戸では、安積艮斎(あさかごんさい)等に学び藩校の改革を図り、天童では、藩の財政難対策に取り組んだ。当時、天童藩の財政は困難を極め、下級の藩士ほど生活は苦しく、貧窮にあえいでいた。大八はその救済策の一つとして、藩士が将棋駒を製作することを取り入れた。武士が手内職を営むことについては反対もあったが、「将棋は兵法戦術 に通じ、武士の面目を傷つけるものではない」とし、将棋駒作りを広く奨励した。天童が将棋駒の産地になった由来といわれている。
そんな、吉田大八が何故切腹しなければ行けなかったのか。
1868年(慶応4年)2月、戊辰戦争において、天童藩主織田信学(のぶみち)は奥羽鎮撫使先導の大役を命ぜられ、中老吉田大八は先導名代となる。官軍であった天童藩は、庄内藩と攻防の末焼き討ちに遭い、鎮撫軍は苦戦。その後、奥羽各藩で結成された奥羽列藩同盟から、大八の身柄引渡しを要求され、大八は米沢藩に自ら捕らえられる。6月18日天童小路の観月庵で切腹して果てる。 享年37歳。天童佛向寺に葬られる。
とあるように、観月庵で切腹をしたのです。
天童市の将棋駒の歴史と幕末の混乱による悲劇。
今では、天童市のシンボルである舞鶴山には吉田大八の銅像が作られ、天童を見守っています。